文学少女的トゥルーエンドについて
映画『勝手にふるえてろ』を1月前半に見に行ってきました。
友達もカップルもこの世の人間関係全部ダッセーよよくそんな薄い言葉で繋がってられんな とか思ってたら、みんなきちんと自分の頭で考えて行動していて、なんだちゃんと考えてんじゃん 私だけバカだからバカ正直に言葉にして全部見せてただけの格下じゃん って膝から崩れ落ちそうな瞬間を再現していた
— ろぐち (@hollow_me691) 2018年1月14日
これは鑑賞直後になんばパークスのソファで歯をがたがた震わせながらしたツイートです。
当記事は勝手にふるえてろのネタバレ付き感想文です。
勝手にふるえてろ、みんなイチ派?二派?
鑑賞後、「やっぱりイチが好き~~~!!」と吠えてる方たちをインターネットでも現実でも良く見かけました。
あ、ほんまに?
私は断然二派です。ウンコ味のカレー派。
二派なんだけど、二が好きって言うと語弊があるかもしれない。
”私には二のような人間が必要であり、二こそが文学少女的トゥルーエンドのお相手にふさわしいと思う”が正しいです。
突然の造語でびっくりさせてすいません。
ここからは文学少女的トゥルーエンドの説明をします。
文学少女とは
まず文学少女とは。
文学少女はタイトルの見栄え的にちょっといいように言ったのであんまり気にしないでください。
ここで定義するところの文学少女とは、年間本を何冊読んだとかじゃなくて、
・夢見がち
・この世の何がダサくて何がダサくないかを十分分かっている(つもりでいる)
・人をすぐカテゴライズする
・タイプの男性は自分に危害を加えてこなさそうな見た目の人である
・映画を映画館で一人で見ることが出来る
・VOWを読んで育った
・かんさい情報ネットten.のお天気キャスター蓬莱さんに欲情する
みんなはいくつ当てはまったかな?
最後の方は私情が入りまくったけど、そういう事項に当てはまる人間を指す。
作中のヨシカも、思い返してみると概ね当てはまると思います。
でももうめんどくさいから以降文学少女もとい”我々”でいきますね。我々。
我々は、「物事にケチつけてばっかでいつも楽しくなさそう!かわいそう!」という他者からの貴重なご意見を頂いても「そもそもこっちは物事を馬鹿にするのが楽しいからやってんだよ!!!何も分かってないくせに偉そうな口を利くなバカヤロ~!!!」と毒痰(毒薬の効能とトントンくらいの痰)を吐きながら蹴散らしたりして、時々ガチで怒られてちょっとだけ凹んで、素直になる気も毛頭ないのに「素直になれたらどれほどいいでしょうか…」と、おアンニュイっぽいことを言って自分を抱きしめつつまた毒屁(毒ガスの効能とトントンくらいの屁)を撒き散らす。エンドレス。そういう人間。
文学少女的トゥルーエンドとは
突然ですが、
教室で本読んでたら、チャラめの子が「本好きなんだよね?何かおすすめ教えてよ~」って絡んできて、この人本とか読まなさそうだし、この質問もその場のノリにすぎずどうせ読まないだろうな~と思ったので、意地悪心でめちゃくちゃ分厚くて難しい本教えたら、一週間後きっちり、「読んできたよ~ちょっと難しかったわ~」と言われ、面食らい、ちょっと照れ、人を見かけで判断していた自分を反省する
というテンプレ的シチュエーションに憧れはありませんか?
私はある!!!ア゛ア゛~~~!!!めちゃくちゃある!!!!!!
これが、文学少女的トゥルーエンドの優しい例です。
つまり、文学少女的トゥルーエンドとは、上記チェックリストに該当するような人物が、今まで侮って見下していた相手に、文学的な面において鼻を明かされることです。
痛い思いをなるべくしたくはないけれど、我々及びヨシカが人間的に成長するにあたり求めるべきなのは、自分の半身よろしく、自分のことを分かってくれる!という確信を持てるイチのような人ではなく、二のようなてんで読めない存在が与えてくれる『おしおき』のプロセスだと思うんです。
『おしおき』とはなんでございやしょ~~~かというと、『勝手にふるえてろ』でいうところの、ラストシーンで二がヨシカの部屋に訪れて、「寄りかかってこられても困る」「愛してはいないけどちゃんと好き」などと突然まっとうな言葉でヨシカに説教し始めた際に、スクリーンの前の我々が味わった「ぎゃ~~~~~~~!!!!!!!!」のことです。あれをいいます。
具体的に言うと、冒頭のツイートにあるような、「どんな人でもみんな、ちゃんと物事考えて生きてんじゃん!!私だけ馬鹿のくせに、いっちょまえに付き合う人を選り好みするから、人と喋る機会が一般的な同い年同じ境遇の人達のそれより少なくて、なので人と意見をすり合わせる機会が少なくて、他の人のこと知らずに大人になって、周りを顧みずに『人よりたくさんのこと考えてて大変なんです。偉いんです。』みたいな態度を、取り続けちゃったよ~~~~ん!!恥ずかしいよ~~~~ん!!つんくの歌詞みたいなことを年中考えててもサマになるのは、ハロプロに入っているような女の子だけだってこと、知らなかったよ~~~~ん!!ぎゃ~~~~~~~!!!!!!!!」のことです。
そして、あのシーンは「ぎゃ~~~~~~~!!!!!!!!」であると同時に、私の中では羨望の対象でもありました。
なぜなら、我々の鼻がへし折られるタイミングというのは、二みたいに自分に好意を持っていて自分を傷つけまいと注意を払ってくれている人からのドラマチックな指摘である場合は極めて少なく、大体は友達が突然疎遠になるとか、男友達に何やら陰口を叩かれてる気がするとか、母親に泣かれるとか、ガチもんの社会的制裁経由だからです。
このラストシーン後のヨシカと二がどうなるかは知る由もないですが、少なくともヨシカはこれからも二が時折見せる ”思ったより考えている人の仕草” に、素直に感心したり、やはり彼の人生の厚みを考えてみじめになったり、自分の言動を直したり貫き通したりするんだと思います。
それってめちゃくちゃ素敵なことです。羨ましいです。立派にトゥルーエンドだと思います。
この世の人間をヨシカ/ヨシカじゃないに振り分けると、私はもうめちゃくちゃヨシカ・サイドなのですが、このラストシーンに関しては唯一、私はヨシカではありません。
ヨシカはこれから二の介助付きで、行先は海である自意識のスロープをゆっくりゆっくり降りていくのでしょう。
一方の私はこれからもそのスロープを何も考えず目先の欲望を満たすためだけにのうのうと登って、ある日悪意だったり善意を持った誰かに肩を押されて(ツラい話ですが、善意である場合が多いです)、入水準備もままならないままに海へ落っこちるのだと思います。
下手をしたら着水の勢いで全身を強く打ったりして、浮き上がってこられないかもしれません。
よくあることです。
「私だけは入水がうまくできるかもしれない」などとは今までの人生経験則上、とてもじゃないけど考えられません。
その日のことを思うと、今から本当に怖いんです。
私の二は?どこに居ますか?
えっ!怖い…
たまらなく怖い…
助けて…
まとまってないけど、打ってるうちになんか怖くなってきたので、最後に有益なことを言って終わりにします。
尻をストーブで炙ると俗世のことを全部忘れられるので、めちゃくちゃいい。
さようなら。